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あとがき
陶山人

 「熊野路 ほんまもん探しの旅」は、熊野路から幅広く和歌山県内の歴史的事象などを取り上げてきました。
 話が進むごとに自分なりのペ-スがつかめ、いつしか楽しく書いていたというのが本音です。あっという間に最終話まできました。

 最後まで飽きずに読んでくださった読者と取り上げていただいた編集長さんに感謝します。よい機会を与えて下さいまして有難うございました。またお会いいたしましょう。

行永京

 とりあえず、これで完結です。
 このブログはニュースメール「日刊移動体通信ニュース M」に陶山人さんから、携帯メールで投稿いただいた連載記事をブログ本を目的に再編集したものです。

 これからは今秋撮影した熊野路などの写真を整理して、掲載していく作業に入ります。
 文章は今回で終わりですが、次回からは写真をお楽しみください。
 なお、急拠、陶山人さんから追加投稿があるかもしれませんが、その時には随時掲載していきます。

# by webpress | 2006-12-13 11:10 | 大塔村
[コラム] ★ 探訪お札街道/お札社会今昔 ★ 
◆お札(オサツ)と言えば、お寺の祈祷札や千社札等を連想しますが、江戸時代から明治時代初めにかけて金銀銭の三貨の他に地域限定の紙のお札が流通していました。
 お札が流通している地域では原則として三貨は使えません。

 現在日本から海外へ旅行する場合、外国通貨と交換して旅行しますが、江戸時代の社会においても同じような事が行なわれていたのです。
 次にお札を発行している領国の多くは経済状態は悪く、その打開策として、お札を発行しました。

 つまり外貨を稼ぐのに領内の商取引を札のみに限定する事により金銀は領内に吸い上げられ、役所に退蔵されるしくみになっていました。
 そのお金は、中には不正に使われたかもしれませんが、普通は財政再建や領国運営等に利用されました。

 このように一方的な領主権力で発行されたお札は、領内の町民はもとより旅する商人や旅人にとっては、常に経済状態で左右される交換レ-トの違いで随分苦慮したと思います。

◎いつの世も同じような事で世情を騒がしています。
 それはあとを絶つことのないお札の偽造事件です。
 江戸時代もあの手この手を屈指して偽造を防ぐ工夫をこらしています。
 現在我々が使っている日本銀行券にも使われている技術でありますが、当時のお札にも透かし技術が取り入れられていました。

 江戸時代の透かし技法には白漉(凹漉)と黒漉(凸漉)の二つがありました。
 この技術はさらに磨きがかかって、より高度な技術として現在に継承されています。
その他に和紙を漉く段階で糸くずを入れて漉いたり(蝦夷松前藩)、漉入れ時に雲帯模様を入れたり(摂津三田藩)、またお札の裏面に西陣織の裂を貼ったり(陸奥仙台藩)、紙に土を混入して漉いたり(現西宮市名塩)しています。

 印刷の段階でも版木にかくし文字(陸奥盛岡藩等)や刷りを二色に色分けたり(因幡鳥取藩)、印刷インクを墨ではなく、西洋インクを用いて印刷(薩摩鹿児島藩や紀州和歌山藩等)したり、印肉の材料を朱や墨ではなく漆を使用(但馬地方や丹波地方のお札)するなど各地こぞって、努力のあとがうかがえるお札を発行しています。

 しかしいつの世もそうであるが、偽造は止まらず、現在も続いているのも皮肉な話です。

 紙幣や貨幣の偽造は今も昔も繰り返えされています。
 今は文明が進んで精巧なものが作られていますが、江戸時代の社会において贋造は重罪であったのにもかかわらず、止まなかったのも、いつの時代にもある世の中の歪みを感じます。

◎江戸時代の贋札や贋造貨には町民が関わったものと権力者が関わったものがありました。
 町民が造って贋造が発覚すると、当時の法律では打首獄門で、罪は家族親類まで及びました。
 権力者の指示で造り、後に発覚すると、時代劇でもよくある話ですが、下の者に全て罪を被せられ、裁かれ、事の真相は闇から闇へ葬りさられました。

 このような贋札、贋造事件で有名な話は、福岡藩の贋札、贋金事件(領主の指示)や加賀大聖寺藩の贋金事件(領主の指示)等外様大名に多いのも特徴です。
 皆さんがご存じの天保銭も幕府が造ったものを写して、薩摩や土佐や山口などで造られました。

 当初幕府は隠密を派遣して探索に乗り出しましたが、西南諸藩こぞって造ったので、追求できずに終わっています。
 西南諸藩によって密造された天保銭が倒幕の資金に使われたのは、因果なお話です。

◎江戸時代のお札にある図柄はほとんどが吉祥を表しており、これはお札がいつまでも人々に愛され、よく使われる事を願った意をこめてめでたい図柄を入れたと考えられます。
 図柄で多いのは大黒天、宝舟、弁財天、七福神で、絵柄は精巧なものが多くみられます。

 これら絵柄には狩野派、土佐派、四条円山派等の画家が下絵を担当している例もあります。 そこで現在のお札に関するエピソ-ドについて触れてみると、我々が今使っている千円札の肖像に夏目漱石が使われていますが、お札にある漱石は真っ正面を向いています。
 実は現存する漱石の肖像には真っ正面を向いたものは全くなく、みな首を傾げているものばかりです。

 それをそのままの姿で採用すると、お札が傾く、つまりは経済が傾いて縁起が悪いとの意から、かたむいている肖像を真っすぐ直して、下図を描き直したという話を当時、印刷局の方から聞いた事があります。

 お札発行の裏話としておもしろいですね。
 昔も今もお札にかける情熱には並々ならぬ努力があったのですね。


# by webpress | 2006-12-13 10:56 | 大塔村
河川紀行/紀州の焼物/甚兵衛焼と善明寺焼
◆甚兵衛焼は、和歌山の古陶で1619年頃、現在の和歌山市東瓦町あたりで瓦師寺嶋甚兵衛によって開窯されました。
 作品はまれで、わずかに茶わんや鬼瓦形の掛け花生、百合花の向付、茶入等が伝わっています。

 尚寺嶋家は代々紀州藩の御用達瓦師の家柄でした。
 焼物製作は初代甚兵衛だけと言われています。
 善明寺焼は日高郡善明寺第6代住職によって享保年間(1716-1736)頃開窯されたと言われています。
 作品は青磁の花器、花瓶、壺、菓子器などで、銘はありません。
# by webpress | 2006-12-12 08:25 | 大塔村
河川紀行/紀州の焼物/民窯
◆民窯とは、藩とは一切関係なく、民間が経営している窯を民窯といいます。
 民窯には瑞芝焼、大福山焼などがあります。瑞芝焼は名草焼、鈴丸焼、減法谷焼などと称され、享和元年(1801)に開窯し、明治9年(1876)頃まで続いています。

 製品は青磁がよく知られていますが、中には中国や日本のものの写しも盛んに焼き楽焼まで手掛けられています。

 製品は茶器から日用雑器と幅広い。大福山焼は別名直川焼と呼ばれ、安政3年(1856)から文久2年(1862)頃まで焼かれ、陶工は京都から呼んで焼かせ、製品にはコウチ写の花生、置物があります。その他甚兵衛焼や善明寺焼などがあります。
# by webpress | 2006-12-12 08:24 | 大塔村
河川紀行/紀州の焼物・御用窯
◆御用窯は開窯、経営に際して藩が資金援助して開かせたもので、高松焼と男山焼があります。 高松焼は市内宇須で崎山利兵衛が開窯し、製品の大部分は伊万里焼を模倣したものが多いのが特徴です。

 男山焼は崎山利兵衛が文政10年に藩許を得て有田郡上中野(現広川町)に開窯し、明治12年まで続いています。
 製品は大部分が染付の日用雑器ですが、中には青磁、コウチ写、色絵などの製品がありまか。製品には無名が多いのですが、中に南紀男山、男山、南紀の銘の製品もみられます。現在男山焼を復興している作家がいます。
# by webpress | 2006-12-12 08:23 | 大塔村
河川紀行/紀州の焼物・御庭焼
◆御庭焼とは、藩主が他の先進地域より有名な陶工を招いて焼かせたものです。
 藩主や側近の人たちの嗜好が濃く反映されており、決して営利だけのために作られたものではありません。

 御庭焼には偕楽園焼や西の丸焼や清寧軒焼があり、とりわけ偕楽園焼は10代藩主徳川治宝の別邸、西浜御殿で永楽保全、仁阿弥道八ら京焼の陶工を招いて焼かせています。
 製品の大部分は楽焼であるが、中には磁器もあります。

 尚、作品の多くは茶器です。
 西の丸焼と清寧軒焼は14代藩主斎順が楽旦入と慶入を招いて城内の西の丸および湊御殿で焼かせ、製品は全て楽焼でした。
# by webpress | 2006-12-12 08:22 | 大塔村
河川紀行/紀ノ川編/紀州の焼き物・概説
◆紀州での陶磁器の始まりは、江戸時代末期と他の焼物の産地に比べて遅い。
 また産地が京都や大坂に近い紀北に集中している事も特徴の一つです。

 紀州には元来、窯業の伝統は全くなかったので、他の先進地域から技術者を招き入れるしか手段がありませんでした。
 ゆえに京焼や伊万里焼の産地から職人を招来し、京焼や伊万里焼のコピ-を焼いたのです。やがて御用窯や民窯の中から両者(京焼や伊万里焼)の技術的な延長線上にありながら紀州独特のものも表れていきます。
# by webpress | 2006-12-12 08:21 | 大塔村
河川紀行/紀ノ川編/和歌山にて8
◆江戸時代以前の紀北は、根来衆や雑賀衆が隣国和泉国まで勢力を張っていました。
 過去に織田信長と戦った彼らは、羽柴軍が徳川家康と対陣している隙をついて大坂を攻めましたが、すばやい羽柴軍の動きによって、和泉の諸城は落ち、紀州領に攻め返されました。

 必死に抵抗する根来、雑賀の衆徒は太田城(現和歌山市)に籠もり徹底抗戦をしましたが、秀吉のお家芸である水攻めと海上からの砲撃によって、落城しました。
 現在城跡には水攻めの際、羽柴軍によって築かれた堤防跡の一部と石碑が残っています。
 また市内大立寺には太田城の城門が伝えられています。
# by webpress | 2006-12-12 08:20 | 大塔村
河川紀行/紀ノ川編/和歌山にて7
◆和歌山城の南側に、藩主の登城や町民たちに時刻を知らせたり、出火、出水、異国船の出没などを知らした時鐘堂があります。

 建物は二階建瓦葺きで、鐘は大坂の陣の時に用いられた大筒を元禄年間、二代藩主徳川光貞が粉河の鋳工に命じて改鋳されたものであると言われています。
 時鐘堂は県指定の史跡に指定されています。付近には国指定の天然記念物根上り松群もあります。
# by webpress | 2006-12-12 08:19 | 大塔村
河川紀行/紀ノ川編/和歌山にて6
 JR紀勢線紀三井寺駅東側の山の中腹に目指すお寺があります。
 このお寺は護国院もしくは紀三井寺と呼ばれています。

 紀三井寺は西国第2番札所の霊場で、寺内には江戸時代建立の本堂、室町時代建立の多宝塔、桜門、桃山時代建立の鐘楼等の貴重な文化財があります。
 また紀三井寺の寺名のおこりは境内の清浄水、楊柳水、吉祥水の三霊水に由来し、さらに近江の三井寺と区別して紀三井寺と呼ぶようになったと言われています。
# by webpress | 2006-12-12 08:19 | 大塔村
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